公文健太郎 展示との対話「Dropped Water, Dropped Fruit」|Dialogue in see you gallery

Dec. 12. 2025

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東京・恵比寿の「see you gallery」での、写真家・公文 健太郎さんによる個展「Dropped Water, Dropped Fruit」。

日本を代表する孤高の山である富士山をとらえた「Dropped Water」と、東南アジア最高峰のキナバル山とその山麓集落を舞台とした「Dropped Fruit」からなる同展には、山からもたらされる大いなる恵みが表現されています。

今回は公文さんに、展覧会と作品の制作背景や、公文さんを惹きつける自然と人々の営みとのつながりについて、詳しくお話を伺いました。

Kentaro Kumon

Photographer / Film Director

1981年、兵庫県生まれ。ルポルタージュ、ポートレートを中心に雑誌、書籍、広告で幅広く活動。同時に「人と自然の接点」をテーマに主に一次産業の現場を取材。日本全国の農風景を撮影した「耕す人」(2016)、川と人のつながりを考える「暦川」(2019)、半島を旅し日本の風土と暮らしを撮った「光の地形」(2020)、瀬戸内の島に起こる過疎化をテーマにした「NEMURUSHIMA」(2022)、父との関係性を通して一年間をかけて撮影したスナップ写真集「煙と水蒸気」(2024)がある。2012年「ゴマの洋品店」で日本写真協会賞新人賞受賞。2024年日本写真協会賞作家賞受賞。

水と果実。富士山とキナバル山がもたらす“神の恵み”

―― 「Dropped Water, Dropped Fruit」は、富士山をとらえた「Dropped Water」とキナバル山をとらえた「Dropped Fruit」からなる写真展ですが、この2つの作品を連作とするアイデアは当初からあったのでしょうか。

いえ、当初はそれぞれ別の作品でしたし、撮影のきっかけも異なりました。

富士山を撮影するきっかけは、2024年に「東京都写真美術館」で開催された展覧会「WONDER Mt.FUJI」でした。長年お世話になっているキュレーターの太田菜穂子さんから2022年末にお声がけいただいて、2023年に富士山を撮影することになったんです。

展覧会の後、同じく太田さんのほうから「今度はキナバル山を撮ってみないか」というお話をいただきました。マレーシアのキュレーター・Steven Leeさんと太田さんで「Two Mountains Photography Project」という企画をやってらしたのですが、それがマレーシア人の写真家が富士山を撮り、日本人の写真家がキナバル山を撮るというものだったんです。それで、1週間ほどかけて、キナバル山とその周辺の集落をまわりながら撮影を行うことになりました。

―― それぞれの作品のテーマについて、詳しくお聞かせください。まず「Dropped Water」ですが、富士山からもたらされる“水の恵み”がテーマとなっていますよね。

そのとおりです。というのも、「WONDER Mt.FUJI」にお誘いいただいたとき、悩みました。富士山は多くの写真家や写真愛好家がこれまでにたくさん写真を撮ってきています。「僕には何が撮れるだろう」と考えて、僕はずっと撮り続けている農業を基点に水をテーマにするのはどうだろうと思ったんです。

そんなとき、付き合いのある伊豆のわさび農家の方から、静岡県の三島市についてお話を伺いました。三島の賑わいのある街のなかにオアシスのように水の湧き出る森があり、とても美しいから見に行ってみたら、と言われたんです。

実際にその場所まで足を運んでみると、街の暮らしとは時間の流れが異なるような感覚がありました。湧き出る水の元を辿れば富士山になるわけですが、日本という水の豊かな国に暮らしていると、「水が山からの恩恵である」ということは忘れられている、そう改めて感じたんです。それで、改めて「富士山の水を見に行こう」と気持ちが固まりました。

―― それで、実際に富士山に登りながらの撮影に挑戦されたのですね。

登山者が少ない時期に登りたいということもあり、3月初旬にガイドの方とともに登りました。まだ厳冬期にあたるため冬用の装備で臨みましたが、たまたま暖かい日だったこともあり、登山中は雨混じりの雪がずっと降っていました。

いっとき雪が上がったのですが、ふと地面を見てみると水の流れができ、山肌に小さな川が生まれていました。でも、たちまち地中に吸収されて消えてしまった。富士山って、海まで続く川が一本も流れていないでしょう? 水分は富士山の山腹の火山灰にしみ込んで、地層を通り抜ける。そして三島や富士宮や、忍野八海などに湧き出ているんですよね。「水は命を育むものだけれど、その根源は山なんだ」と、実際に目で見て実感した瞬間でした。

―― 富士山からもたらされる恵みが水であると気づかれた一方で、「Dropped Fruit」を撮影された際には、キナバル山の恵みは“果実”だと感じられたのでしょうか。

キナバル山を撮りに行った際には、「Dropped Water」「Dropped Fruit」というそれぞれのタイトルもまだありませんでしたし、2つの山をとらえた作品を連作にしようと思っていなかったので、とくにつながりは考えていませんでした。とはいえ、僕はいつも実際に撮影する前に大まかなテーマを設けることが多いので、富士山では撮ることのできなかった「人と山とのつながり」をテーマに、「山への信仰」や「儀式」などが撮れたらと期待して現地へ赴きました。

ところが、実際に訪れてみると、キナバル山を信仰対象としている人はほとんどいませんでした。何日もかけて周辺の集落をいくつもまわったのですが、イスラム教やキリスト教を信仰している人が多く、かつてあった山への信仰は失われてしまったということがわかりました。でも、これは、富士山で感じたことと同じこと。人の価値観が変化するにつれ、「人と山とのつながり」は希薄になっているのだと思いました。

「困ったなあ、作品のキーワードが見えてこないぞ」と思いながら、現地のドライバーの方ととあるカフェに入ったときのことでした。訪れた集落のなかにとてもきれいなところがあったので、その場所の名前を尋ねると「Bundu Tuhan(ブンドゥトゥハン)」だという答えが返ってきました。マレーシア人が翻訳すると「神の恵み」という意味で、山から吹き降りてくる雲がいつも流れてくるために、曇っていることに由来しているのだと。しかし、さらによく聞いてみると、現地の言葉であるドゥスン族の言葉では、それは「落ちた果実」という意味になるのだということもわかりました。神の恵みと落ちた果実が同意義として存在したことは、山の恵みとして目に見える形でもたらされる恵みが、キナバル山においては果実だったのではないかと、ピンときた瞬間でした。

―― それが、2つの作品がつながった瞬間でもあったのですね。

そうですね。僕はドキュメンタリーを編む手法として、作品にキーワードを見つけることをとても大切にしているのですが、富士山からは水が、キナバル山からは果実が“落とされる(Dropped)”というのが、2つの作品のキーワードとしてつながったんです。

翻訳家の方からは「DroppedではなくFallenではないのですか」と指摘されたのですが、自分のなかでは水も果実も自然に“落ちる”ものではなく、なにものかの手によって“落とされるもの”というイメージがあったので、あえてDroppedをタイトルに選んでいます。

自然と人々は影響し合う。人もまた風景の一部

―― 展示されている文章には、東日本大震災後の2011年5月に、飛行機内で窓越しに山を見下ろしながら「山が全ての豊かさのはじまりなんだ」と感じたと記されていましたね。

2011年以前、僕は海外に出向いて写真を撮りにいくことが多かったのですが、東日本大震災をきっかけに「自分の足で歩いて、日本を知ろう。写真を撮ろう」と考えるようになりました。

震災直後、被災地はもちろん、日本中が“死”というものを身近に感じていたと思いますが、旅先に向かう飛行機の窓から見た山の緑に、ものすごく“生”を感じました。山が人々の暮らしに欠かすことができないことはうっすらと知っていましたが、その時ハッとしたのを覚えています。その後何年も作品を撮りながら山を意識してきましたが、それを改めて作品に落とし込むことができたのが、今回の「Dropped Water, Dropped Fruit」と言えると思います。

―― 自然と人々の営みとの結びつきというのは、公文さんの作品に共通するテーマのように感じられますが、写真をはじめられた当初から、この2つは公文さんを惹きつけるものだったのでしょうか。

「NEMURUSHIMA」より

僕はあまり「自然」と「人々」を分けて考えていなくて、人も自然の一部だと思っています。もちろん、渋谷のような都会の街を見て同じように感じるわけではないのですが、僕が取材する地方の風景や、農業の現場においては、農家も自然の景色の一部だと感じられることがあるんです。人の暮らしは自然から影響を受けているけれど、農家の働きもまた自然に大きな影響を与えてもいるわけですからね。

というより、どんな場所で暮らしていたとしても、結局人と自然は影響を与え合っています。僕は、農村地域などの自然のそばで暮らす人々をこれまでにたくさん撮影してきたこともあり、単純にそれが見えやすい立場にあったんでしょうね。

―― 先ほども、キナバル山周辺の集落をいくつも訪ねられたとおっしゃっていましたが、撮影地に暮らす方々と実際にお話しすることは、ふだんから公文さんが心掛けていることですか? 

もちろんです。初めて訪れる場所については、知らないことばかりですからね。僕は事前に資料や文献を読み込んでから取材するタイプではないので、現地の方から実際に聞いた言葉をとても重要視しています。

先ほども少しお話したように、僕は撮影をする前に「こんなものが撮れたらいいな」という大まかなテーマは、自分のなかに用意するようにしています。でも、そのテーマをどのようなアプローチで作品とするのかは、実際に現地を訪れてキーワードを見つけるまではわかりません。

例えば、瀬戸内海の離島を撮影した「NEMURUSHIMA」という作品では、事前に「過疎」というテーマを用意していました。でも「過疎」というテーマにどんなキーワードを組み合わせるかによって、作品の印象は大きく変わりますよね。もし「高齢化社会」をキーワードにしたとしたら、すごく暗い作品になっていたかもしれない。けれど僕は実際に島を訪れて現地の方々とお話したときに「暮らしが眠っていくというのは、自然なことなのではないか」と感じて、「眠る」というキーワードを見出したんです。その結果、人口が減少していくにつれ自然に還っていく島の姿を、ゆっくりと眠りに落ちる過程としてとらえることができました。

今回の「Dropped Water, Dropped Fruit」も、実際に富士山を登ったり、キナバル山の集落をめぐったり、現地の方とお話したりしなければ、キーワードを見つけ出すことはできなかった。だからこそ、僕にとっては自分の足を動かして、人と会話するというのはとても大切なことなんです。

「NEMURUSHIMA」より

写真集と展覧会、それぞれの役割と価値

―― 今回の展覧会のキュレーションは藤木洋介さんに依頼されていますが、藤木さんと展覧会をつくるのは、今年だけでも7回目になるとか。それほど信頼を寄せていらっしゃるということでしょうか?

そうですね。「Dropped Water」も「Dropped Fruit」も、もともとはグループ展のために撮影したものだったので、今回は「富士山を写真家たちがどう見たか」という文脈から離れて「山を僕がどう見たか」を表現するために、僕が自分で見たことをすべて説明して、どういうふうに展覧会をつくるか、信頼できる藤木さんと一から一緒に考えたいと思いお願いしました。

藤木さんのキュレーションはほんとうに素晴らしくて、すべての展示のディテールにちゃんとした理由があるんですよ。「この写真はどうしてこの大きさにしたんですか?」「どうしてこれをここに配置したんですか?」など、細かい疑問をぶつけても、必ず納得できる答えを返してくれる。ただ展示空間を雰囲気よくオシャレにつくっているわけではなくて、僕の考えを聞いた上で、ひとつひとつに意味をもたせて構成してくださいます。ときどき、それが僕の気づいていない作品の解釈であることもあったりして、僕の新たな学びにもつながります。そういう意味でも、安心して作品を任せられる方ですね。もちろん、そのためにはこちらも考えを確かなものにしている必要がありますが。

―― 今回、写真集に大型のA2判を採用されたのはなぜでしょうか?

写真集の製作は、展覧会の開催が決まる前から進んでいて、前作の「煙と水蒸気」でもご一緒した、デザイナーの宮添浩司さんと2人で取り組みました。大型サイズを選んだ理由のひとつは、僕が実際に現地で感じた山の大きさだとか、山から落ちてくるものの存在感だとか、自分の視界で捉え切れない巨大なものの迫力を、よりリアルに表現できるのではないかと思ったからです。

もうひとつは、今回のようなキーワードやストーリーが重要な作品の場合、一枚ずつのプリント販売はなかなか難しいので、販売する方法として写真集のほうが相性がいいだろうと思ったから。写真集というと、作品の複製物と捉えられることが一般的だと思いますが、そんなに部数が多くない写真集の場合、手作業で仕上げられていくし、基本的には長く残せるものですから、個人的には「写真集も作品の一部である」と思うんです。なので今回は、大きさも、紙や印刷にもこだわりきって、作品として扱えるモノとして写真集をつくることを目指しました。

―― 公文さんは写真集を出版されるだけでなく、展覧会を開催されること自体にもこだわりをもたれている印象です。積極的に展覧会を開催される理由は何ですか?

写真をやっている限り、写真集をつくることと展示をすることは欠かせないと思っています。でも、写真集と展覧会とで、役割は全くちがう。本はその先もずっと残っていきますし、作品のストーリーを伝え続けてくれるものですが、写真は空間そのものですから、僕は「展覧会をやらなければ、作品にはなっていない」と思ってしまうんですよ。誰かがその写真の前に立ち、何かを考えてくれることが、作品としてのゴールなのではないかと思うんです。もちろん先ほどお話したように、本がその役割を果たすこともあるわけですが。

自分自身にとっても、展覧会をするというのはとても重要なことです。ただシャッターを押して満足するだけでなく、そこで感じたこと、考えたことを、第三者であるキュレーターの方にしっかり伝える。ギャラリーの方に伝える。それをみんなで噛み砕いた上で、体験の場となる空間をつくる。そうすることで、展覧会を通じて、僕はもう一度自分の写真について考えることができるんです。

―― 現代ではweb上でも作品を発表することができますが、あくまで公文さんにとっての作品のゴールは、写真集や実空間での展示にあるのですね。

そうですね。世の中には、SNS上のみで活動している写真家の方もいらっしゃいますし、それがダメだなんて、もちろん思いません。でも僕には、SNSって、アプリのフォーマットに作品を当てこんでいるという感覚が拭えません。「もっと作品を複合的に楽しんでほしい」という気持ちになるんです。写真集のページをめくる際に紙の固さを感じたり、展覧会でプリントの質や額装を楽しんだり、いろんな側面から作品を味わってほしい。もっといえば、AIが好みに合わせて提供してくる“画像”としてではなく、一対一で向き合う“作品”として出会ってほしい。

今の時代において、作品が画面上ではなくギャラリーという空間に存在するということには、ほんとうに価値があると思いますし、僕はこれからもずっと、展覧会を開催することはやめないと思います。

Information

EXHIBITION

Dropped Water, Dropped Fruit
会期:2025年11月22日(土) – 12月18日(木)
営業時間:13:00 – 20:00 (会期中無休、入場無料)
会場:see you gallery
住所:〒150-0012 東京都渋谷区広尾1-15-7 2F
主催:see you gallery
キュレーター:藤木 洋介 (Yosuke Fujiki Van Gogh Co., Ltd.)
ディレクション:黒田 明臣
SNS:instagram.com/seeyougallery/
お問い合わせ先:contact@seeyougallery.com
メール対応時間 10:00 – 19:00(弊社休日を除く)

by Kentaro Kumon

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Dec 12. 2025

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