伊藤 公一 | MY PERSPECTIVE

Jun. 20. 2024

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Jun. 20. 2024

Koichi Ito

Photographer

1983年生まれ、奈良出身。「100人の80人に受け入れられるか、100の1人を撃ち抜くか」をモットーに、感じたことや考えたこと、想ったことを表現する手段として写真を選択している。

7つのキーワード

被写体

写真制作に際して、撮影する被写体そのものを特に何かコレと決めて撮っていることはあまりないかなと思います。多いのは、日常の生活、パートナー、子供、家族、ご飯、友達。街に出ればその辺の空き缶から犬猫動物や街並みに至るまでのもろもろ、旅に行けば海の幸山の幸に風光明媚な絶景を撮ってみたりなんかもします。あんまりありませんが、極端な話、お誘いがあればモデルさんとの撮影も行います。

ただし、被写体が何であれ、それを撮影するときには「被写体を撮っている自分の気持ちや考え、感想」を潜り込ませるようにすること、をなんとなくの自分ルールとしています。自分が悲しいと感じて写真を撮るならば何であれ悲しさの片鱗が潜り込むように、楽しければ楽しさが、辛ければ辛さの成分が少しでも潜り込むように。

自分の写真の場合は、あくまで被写体は「お題」なのではないかと考えることがあります。被写体というものをお借りして、それをネタに自らの想いをうたう。例えば和歌で桜を歌う場合があったとしても、桜そのものに言及する場合と、桜をネタに恋に身を焦がす自らを語る場合があるように。

そういう意味では、被写体の良さを引き出すとかは実はあんまり考えていないのかもしれません。たとえそれが我が子の写真であっても、何を撮影しても自らを写し込まないと気が済まない。常に一人称の写真たち。被写体の魅力に負けて撮らされてしまうことがあると「悔しいな」と思うこともありましたから、利己的だなと思うことは結構あります。

機材

普段使っている日常の写真には、EOS M2 + EF-M22mm F2 STMのセットか、SONY RX1Rのどちらかを手の届く場所に置いていつでも撮れるようにしています。特に2022年の秋に子供が産まれて以降、子育てのもろもろの荷物が膨大かつ優先なので、邪魔にならない小さなカメラであり、その中でも使いやすく制作に使用できる程度の大伸ばしに耐える画質を有するカメラ、というのが一番の理由です。

特に、EOS M2 は発売当初に購入してからずっと使い続けている相棒です。軽さと質感と、何よりEF-M22mm の写真の雰囲気が自分の陰キャ気質に合っているので気に入っています。ヘビーユースしていたら、いちど旅行で壊してしまったのでまた同じセットを揃えました。

腰を据えて写真を撮るぞ!と言う場合や、友人知人に頼まれて撮影するなど失敗したくないなというときにはPENTAX 645Dか、EOS 5DSのカメラに必要な単焦点レンズを数本ずつ用意します。PENTAX 645D にはsmc PENTAX-D FA645 55mmF2.8AL SDM AWか、HD PENTAX-D FA645 35mmF3.5AL を主に取り付けています。EOS 5DS には EF35mm F2 IS USM が基本で、だいたいこの組み合わせで全体の80%くらいの撮影を行っています。

あまりこだわりはないつもりですが、結果的にはフルフレーム換算で35mm から85mm くらいの焦点距離の単焦点を主に使っているようです。なんとなく必要な写真構成を決めるために自分で諸々のバランスを考えながら位置を決めるというのが自分の中でのお作法になっているので、基本は単焦点を使用することが多いです。

一時期はProfoto B2 を購入してライティングをしてみたりもしましたが、いまはほぼ行なっていません。セッティングを追い込んで…とやっていくうちに、自分が対峙しカメラを構えるに至った際の感傷が薄れたり当初のものから遊離し変容していくような気がして、なんかその辺が自分のやりたいこととは違うな、向かないなと感じてしまいました。暗ければ暗い、よく見えないならよく見えない、画質悪いなら画質悪いでも良いのではないか、その場の状況を優先する無添加写真の思想でええやん、と割りきっています。とは言いつつ、ご飯写真はLEDライトでライティングしたりするので、この話もちょっとええカッコしいの側面もある気はします。

自分の”心象”がカメラ撮って出しの明るさやトーンで出ることは全くないため、撮影後の写真データを追い込むための調整ソフトは必須です。主に調整はPhotoshop で行なっています。95%の作業はトーンカーブ補正とヒストリーブラシで済ませています。

理由

写真を撮る理由はその時その時によって、刻々と変わってきました。自己実現、自己顕示、承認欲求だったりしたこともありましたし、何らかの野心だったこともありますし、単に手癖や辞める勇気がなかった惰性だったこともあります。特には、弱った自分の豆腐のようなメンタルを、何とかバランスをとって社会や世界と折り合いをつけるための拠り所だったこともありました。これから何十年後に自分の写真を見る家族や友人、もしくは鑑賞者のため、そう考えるときもあります。いずれ消えていくことが分かっているものをできる限り残しておきたいと考えることが撮影する動機となることは増えてきました。

実際には、それらのどれか一つだけが、写真撮影の唯一の理由というわけではないのでしょう。さまざまな要因がないまぜになった総合的な結果として、そのときの自らの写真を撮る理由が出来上がってきていたのかなと思っています。

理想

例えば、自分を写真家と自ら呼称することはしないようにしています。鑑賞されることを目的にした写真制作を行ってはいますが、制作者が写真家とされるかは、その写真に対峙し鑑賞した人々によって結果的に定められるものではないかと考えているためです。

自分にとっては、写真制作は一種の祈りのようなものだ、と考えています。写真と生活は共にあり、写真は生活に付き従う。生活のなかで、美しければ美しさを、辛ければ辛さを、楽しいなら楽しさ、悲しいなら悲しさ、退屈ならば退屈さ、立ち上がる思考や思想があればその思考や思想を、撮って、削り、練って、磨き、写真という形にする。それが自分が行う写真制作であろうと、そう考えています。

祈りは他人と比べてはならず、また祈りは誰に評価され判定されるものでもありません。祈りはあくまでも自らの精神であり、完全に自らの内に閉じる行為です。自分の中にのみ誠実と真実が存在します。鑑賞者という外部の視点が存在する点について相違はありますが、写真制作の芯には、その祈りと同じものが存在すると、今の自分は考えています。他人と比べることなく、誰に判定されることなく、ただ自らの想いをきちんと写真の形に落とし込む行為にどこまで忠実でいられるか。理想はそこに存在すると考えています。

発信

インターネットの隆盛がなければどうなっていたか。少なくとも今と違った形になっていたのではないかと思います。
写真制作におけるある種の核となる一部の領域においては、絶対的に孤独が発生し、また必要とされる要素がある気もしますので、発信環境がいかに変わろうとも写真制作そのものについてはあまり変わらない部分が実はおおいのでは、と思う部分はあります。

自分の場合は、大昔にあったfotologue という写真SNSサイトから、写真制作をネットに公開する生活が始まりました。fotologue、Zorg、Flickr、Facebook、そしてTwitter※と隆盛の場がどんどん移り、さまざまな写真や制作者が現れ、消えて、写真もプレイヤーも移り変わって行くなかで、写真SNSを通じて知り合った”同志”との交流や、ある種のライバル意識による切磋琢磨が、自分の写真に対して大きな影響を与えてくれたことは間違いありません。以前に実施した写真展でも、ネットがなければ到底見てもらえないであろう遠方からわざわざ来てくださった方が想像以上にいらしたり、私の写真に影響を受けてくれていたりしていて、そういう意味では、写真を取り巻く世界を拡張させる意味や価値は間違いなくあったし、今も変わらず存在するとは考えています。

「世界はネットにあげられないもので出来ている」、自分は最近そう考えるようにしています。そっちの方が絶対に素敵なのではないかという直感です。

※現『X』

仕事

むかしは「写真を撮って誰かに渡してそれでお金が稼げるなんて、なんて素敵な!」と思うこともありました。何か写真を仕事にしようと思ったことがなかったかというと嘘になります。ただ、このところ自分は、本業を別に持っていることもありますが、写真制作は一種の祈りに近いという宗教的な理由(笑)によって、写真を仕事とすることに極端に慎重になっています。札っぴらで頬を引っ叩かれたら宗旨替えするかもしれません。

未来

写真が生活に付き従うのであれば、もしかしたら「善き写真の前には善き生活がある」なのではないか、そんな恐ろしい仮説を考えたことがあります。この説は怖いのであまり見ないようにしていますが、もしかしたらそれは本当なのかもしれない、と目を隠した指のすき間からチラチラと覗き見ることもあります。

自分の精神があまり良くない時の方が良い写真が撮れるぞ!みたいに思う時期もあって、実際のところはその仮説が真なのか偽なのかは分かりません。自分の場合は、まずは目の前の生活をきちんとこなしていくこと、写真を撮ることを諦めないこと、社会と折り合いをつけていくこと、が今後の未来に対して絶対的に必要なことなのかなと思っています。1983年生まれのおじさんなのに新社会人の抱負みたいになってますが。

あ、でも、みんなでレンタカー借りて、海とか山とかにドライブ行って、タオル忘れたまま足を砂だらけにして写真撮ったり撮らなかったりして、帰りに道の駅でソフトクリーム食べて、山奥の温泉でひとっ風呂浴びて、トンネル開けて見えた爆裂な夕暮れに歓声を上げて車止めて即席撮影タイムして、車を駅前で返却した後に近くの雑な居酒屋に入って乾杯して中ジョッキをぷはぁする、みたいなのはやりたいです。誰かやりましょう。

伊藤 公一氏 作品ギャラリー

by Koichi Ito

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