書写と書道と写真の話
書写と書道の違いとは
私、小さい頃は字が汚かったので、小学校の時に近所の習字塾に放り込まれて、そこで何年か習字を習っていました。
結局はやらされ感満載で通っていて、あと能動的な練習を全くしなかったので、それほど上達はせずに終わりました。なんというかお月謝もったいないことしたな、と両親に申し訳ない感じではありましたが、今は(お世辞にも上手とは言えないものの)他人が読める程度の文字は書けているので、そういう意味では行っといてよかったなとは思っています。
上記の段落は、本稿の趣旨に必要ない完全なるマクラなんですが、ええっと、小学校と中学校でも、国語の時間のなかに、毛筆と硬筆で文字を書く、いわゆる習字の時間があったと思います。正確には「書写」という授業が国語の一部として設定されていて、年間で何時間かやる決まりになっているようです。マス目があって、超綺麗なお手本の字を見ながら「納税」とか「水泳」とかの文字を、トメハネハライに気を使いながら、ずっと書いていくやつです。
いっぽうで高校になると、美術は選択科目になって美術、書道、音楽に分かれて、どれかを選択して週に2コマだか4コマだかやったかと思います。ここでは科目は「書写」ではなく「書道」です。ちなみに私は美術選択でした。実家に当時買わされた油絵セットが転がっています。
さて、気にしたことのない方もいるかもしれませんが、「書写」と「書道」の違いってご存知でしょうか。実はわりと違いがあります。いま書いてきた中にもあるんですけど、面白いのは、小中学校での書写は国語の一部になり、書道は美術の一部になるんですね。これが違いを端的に示しています。
それぞれの正確な定義を、と言われると専門家の方にお任せしますが、大辞泉によると、書写は「文字を正確に書くことを目的とする」で、一方、書道は「毛筆によって書の美を表そうとする芸術」なのだそうです。
社会的に正しく整った文字の書き方を習い、正確・精確な文字を書くための試行訓練が書写であり、文字を書くことで美を表現するのが書道であるという感じでしょうか。
この二者の間の差として、私が最も大きいなと考えているもの、それは「規範がどこにあるか」です。「良しとされる規範が外部(=お手本)にあるものが書写」であり、「良しとする規範が内(=作者の美意識)にあるものが書道」である、ということです。
書写的な写真、書道的な写真
ここで、写真を撮っている我々としては、この二者の違いに着目して「写真はどうなんだろうか」という問いを行ってみます。それはすなわち「私の/あなたの写真は書写ですか書道ですか」という問いです。
話を整理するために「1.書写的な写真」と「2.書道的な写真」という書き方をしてみます。
するとそれぞれは、
- 他に到達目標とするべきお手本があり、そのお手本のように撮影する写真
- 到達目標を外に置くのではなく、自分の内部にある美意識に依って撮影する写真
という風に変換されます。どういう写真かイメージできたでしょうか。
…さて、こう書くとどうしても「書道的な写真>書写的な写真」と捉えられがちですが、そう単純にはいきません。書写書道の話で考えると、「書写の鍛錬と基礎なき書道はありえない」からです。
一般的な規範としての正しく美しい文字が書けてから、自分の美意識による書道表現を行うのだという、言ってしまえばありがちな「基礎が大事」みたいな話になりますが、大事なのは間違いないので、ベタを承知で書いておきます。
また、この話もこれまでのお話で繰り返し述べてきた別の観点と同様に、書写的だ/書道的だ、とはっきり切り分けられるものではなく、それぞれの要素が混ざったバランスの中で、重点的な要素をどこに定めるかという話になります。ですので、本稿ではどういった写真が書写的で、どういった写真が書道的かという判断は敢えて行わないことにします。
写真の基準を外にもつか、内にもつか
その上で、「写真を表現として他の人にみてもらいたいのだ」と考える場合、自分が提示しているものが何であるのか、また、自分が提示すべきものは書写的な写真であるべきか、それとも書道的な写真であるべきか、は意識的に、慎重に決める必要があるでしょう。
「自分の出した写真にはお手本があって、私はそれに少しでも近づけるよう頑張りました」という写真を提示してみてもらうことが、習い事の習熟度を測るような文脈(たとえば、写真教室の卒業展などの場合は、この文脈と位置付けられることも多いでしょう)以外において、一体どのような価値を持つかについては、残念ながら少し厳しい評価にならざるを得ないと思うからです。
キツい書き方をするならば、例えば、せっかくの休日にようやっと時間を確保してギャラリーに向かい、ウキウキで対峙した写真が、すでに評価が確立したお手本的な作品に似せよう似せようと頑張った写真ばかりであった場合、見た側は「お手本への到達度」を確認する以外の見方がなかなか見いだせないのではないか。
そういう点で、時間の無駄、とまでは言いませんが、果たしてそれは提示する意味のある写真なの?、と問われてしまいかねないことは覚悟しておくべきです。
写真を提示する側としては、他人に足を運ばせ、目の前に立たせ、凝視させ、自分の写真を鑑賞してもらったときに、「写真教室の先生の採点体験」以上の体験を、鑑賞してくれた人に与えるものになるのかは、一度考えてみた方が良いでしょう。もちろん、既成の評価軸に対する挑戦として意図的・便宜的に使う場合はその限りではありませんが。
提示する写真が依って立つものが、自らの外にある規範なのか、内にある規範なのかについて考え、整理してみると、自分の写真をどうするべきかについての一つの指針になってくるかと思います。
それでは。