天を見よ、見えるはずだ、死兆星が。と言ったのはラオウでしたが、オレにはモニター越しで死兆星が見えます。
ゆるふわも極めると、星まで見えるのかと。
そうか、これはただのストリートファイターでいうピヨリ状態かでお馴染みのあきりん @crypingraphyです。
写真がうまくなるたったひとつの方法
写真がうまくなるたった一つの方法とかぶち上げてみましたが、人はそれぞれ自分なりの答えを持っているのかもしれません。
それが違うものか同じものかわかりません。
自分は基本的に物事を言い切るのが苦手な方なんですけど、この点については、ほとんど確信しています。
自分にとっては、これが唯一の答えで、唯一の方法です。
目を鍛える。
いきなり結論からいきましたが、「目を鍛える」以上。これが全てだと思っています。
しかし「目を鍛える」と言ってもどういうことなのか?
という話ですよね、はい、ゆるふわすぎて恐縮です。ここは少し自分がどう思っているかを説明します。
何を美しいと思うか
何を美しいと思うかというのは、人それぞれで、それが個性や多様性をうんだりしているわけですが、これは何も絵的な美しさに限りません。
例えば、シロクマという生き物は共食いをします。
自分はグロテスクな映像は苦手なのですがこの写真を事故的に見てしまった時、美しいと思いました。
それは絵的な理由ではなく、普段見逃してしまいがちな地球の営みというモノに触れることができたようなきがしたのです。
残酷と感じてしまった自分に対して人間としてのエゴを感じて恥ずかしくなると同時に、地球の尊さを認識しそれをかけがえのない美しさだと感じたんですね。
で、そこで見たというのはまさに写真なんですよ。いま苦悩している写真。
「絵的にはグロテスク」なんですが自分にとっては「美しい写真」なんですね。
きっとこんな風に、多様な美しさの形から自分の中の美の基準を厳しくも広げつつ「審美眼」は鍛えられていくんじゃないですか、きっと。
写真に限らず様々な情報から我々は無意識に影響をうけていて、それが知らず知らずのうちに審美眼を広げているはずなんですよ。
影響なくして表現はないと思っています。
その影響が良いものか悪いものか、気分が良かったか悪かったかなんてのは関係なくて、色々な影響をうけて我々は形成されて、表現していっている。
そしてそれは各々の審美眼を通してあらわれる。
しかし審美眼を自分から鍛えていくという事もできるはずで、それが写真を上達させる唯一の方法だと思っています。
盲目のフォトグラファーもいるこの世界ですが、写るモノと、見る人が常にいるわけですから。
審美眼は存在する
審美眼は存在するのか?
何度も書きますが、絵的な美に留まりませんよ
ここで一つ、記憶に残っているおもしろい話を紹介します。
BLINKという本に載っていた話で、なけなしの英語力を駆使して英文で読んだモノなので間違いがあったらあれなのですが、ざっとこんな感じです。
ギリシャの何処かで、どこも破損のないミロのヴィーナスとでも形容すべき彫刻が掘り起こされた。
付着している物質は当時の年代を証拠づけ、読み取れる制作過程からもそれが歴史的に価値のある年代であることを示している。
ギリシャの美術館から専門家が派遣され、その彫刻が贋作ではないかという調査を数ヶ月に及び行った結果「贋作ではない」という結論が出された。
そして彫刻をゲッティー美術館が高額な値段で購入するに至り、ギリシャ彫刻はアメリカへ渡ったのだが、それを一目みた瞬間におかしいと思った人間が二人いた。
一目見た瞬間、まさにBLINKの瞬間に、たった二人だが、なんとなくの違和感を感じた人物がいた。
そしてそのうちの一人はキュレーターとして権威のある人間であり
ゲッティー美術館が改めて真贋について調査を行った所、贋作だった。
こういうことだと思うんですね。
目を持っているか持っていないか。
近代批評を確立した小林秀雄は、ゴッホの色彩を評してこのように述べています。
「我々がゴッホの絵を眺めながら無限の色彩を感じていたとしても、彼の目にはそれ以上のモノが見えているに違いない」
一流の目を持っていることが、総じて一流の作品を生み出せるというわけじゃないですYO。
しかし表現者は少なくとも確固たる審美眼がなければきっと自信をもって自分の作品を世に出すことができないんじゃないでしょうか。
少なくとも自分は、自分の目が不確かなまま、自分の作品を大手を振って公開することはできないですね。
例え間違っていたとしても、「これが美しい」という思いの乗ったモノが作品であり、それ以外は習作なのです。
話は戻りますが、ここで先の例で違和感を感じた権威ある人へと近づく努力というのが、我々にもできるはず。
無数の正解から一つの答えを
自分が良いと思うものが、良いものでなかったらどうしましょ?
もし、自分が良いと思っているものが、その他の良いものを知らないことによって起きている判断だとしたら。
経験と環境によって、ひどく限定されている好悪だと想像したら怖くないですか?
自分はそれが怖いです。
なので、出来る限り世の中で良いと言われているものに触れるようにしています。
写真に限らずです。
興味があるかないかは関係ありません。
大衆が良いと言っているかどうかということもあまり関係ありません。
一流の目を持っていると思われる人が、認めているものに触れるかどうかです。
大抵の場合、個人的には一切の興味がそそられないモノです。
でも触れてみます。やっぱり興味もなければ何が良いのかわからないことばっかりです。
それでも触れてみます。
そして、結局わからなくて、わかったような気がしても、それはわかった気になりたいからなっているんじゃないか?なんて思ったりしながら答えの出ないグルグルの中で溺れそうになりながら、まあ繰り返して。
意味のないことかと不安になりつつも、やはりそれを知っているか知らないかではまた、見えてくる世界が違うと思うのです。
「目を鍛える」方法は無限にあります。その人それぞれの方法があると思いますが、まずは「目を鍛える」ことを考えてみて、それを実践するのはどうでしょう。
それが写真を上達させる唯一の方法だと思います。
審美眼が経験と環境によって生まれるだとしたら、少しでも経験と環境を審美眼を鍛える方向へ仕向ける。
世の中には、無数の正解があるけども、その中で美の基準を探そうと努力することに価値はある、きっとある!
TwitterやInstagramだけではなく、色々なところで写真に限らず良いモノを目にする機会は増やしたいですね。
良いものを知っている人が、良いものを作れる
天才的な審美眼を、生まれ持っている人はいます。
そうでなくとも、生まれた環境によって持っている人も。
しかしそうでなくとも、目を鍛えて観る努力をすれば、先天的なセンスや才能をもつ怪物たちにも負けじと、戦えるんだと思います。
上達しようと願う人の努力は、良いものをきちんと良いと感じる眼を求めて一心に向かうことで、どんな方向であれ結実するはず。
というよりも、誰よりもそう信じたい自分は、そういう努力をしています。
まったく興味のない写真集を買っていると馬鹿にされながら笑