はじめに
みなさまこんにちは、「写真のタイトルやキャプションが中二病ポエム(笑)」とか「写真の文章が長い」と言われることがあるco1です。秘密にしていましたが中学二年生(34歳)です。
どのくらい長いのかというと、具体的にはこのくらい長かったり酔ってたりします(写真タップでFlickrに繋がります)。
また、2015年に行った個展「HOPE」でも、展示写真30枚に対して1つ、少し長めのポエムっぽいキャプションをつけました(写真タップでキャプションを掲載した外部サイトにつながります)。
…や、写真を編集して文章を考えている時は、すごい臆面もなくというか、すごく真剣に書いているんですよ。もうこの渾身の文章は誰に見られても大丈夫!というつもりで書いています。
書いてはいるんですが、以前、初対面の人にキャプションをみんなの前で読み上げられかけた時は、やっぱりちょっと(だいぶ?)恥ずかしかったです。「やめてください/////」という感じで止めに入りました。
さて、私のことは置いておいて、今回のお話です。
写真をやっていると、しばしばこういう意見を目にすることありませんか?
「写真にタイトルなんていらない」
「写真にポエムつけてんじゃねえよ」
「写真撮ってるんだから写真で語れよ」
「写真だけで語れないなんてそれは大した写真じゃないんだ」
語気の強さや言い方はいろいろかもしれませんが、こういう意見を見たり、言われたりした人がいるかもしれません。
こういう話を耳にして、「タイトルをつけている自分はダメなんだろうか」「詩を考えて写真につけているけれども、ポエム(笑)だとかなんとかいろんなことを言われてしまって、やっぱりこういう文章って載せないほうがいいんだろうか」…そうやって悩んでいる人も、いるかもしれません。
なので、今回は上で書いたようなお話、すなわち写真と文字との関係について写真に文章をつけるべきではないのか写真は画像だけで完結したほうが良いのか
といった観点についてちょっと考えてみたいと思います。
タイトル・キャプション・ステートメント
まずは用語を整理しましょう。
今回、写真に添えられる文字情報を、以下の3つに分けて考えることにします。
- タイトル:写真の「題名」
- キャプション:写真につけられる「説明文」
- ステートメント:写真の製作意図や狙い、作品の構成要素や鑑賞ターゲットを記載する「説明(声明)」
タイトル
1のタイトルは、そのまま「題名」です。その写真が何の写真か、その写真は何を示しているものかを端的に示したもの、という定義になるんでしょうか。
例えば、第二次世界大戦でアメリカ軍が硫黄島の山の頂上に旗を掲げている、とても有名な写真(外部リンクが開きます)がありますが、この写真は「Raising the Flag on Iwojima(硫黄島に掲げられる星条旗)」というタイトルが付いています。例えばこういう感じです。
タイトルは写真一枚に対してつけられることもありますし、個別の写真にタイトルがつかず、複数の写真をひとつの作品としてまとめ、それにたいしてひとつのタイトルをつけることもあります。
キャプション
2のキャプションは、概ね「写真に添えられた、写真の光景を示す説明文」と定義できるかと思います。
このあたりは表現としての写真制作を考えるより、例えば報道写真などを考えたほうが分かりやすいかもしれません。良くありますよね、新聞とかで、廃墟にたたずむ人を写してある写真に「砲撃によって破壊された寺院に立つ△△△さん。△△△さんはこの戦闘で8歳になる娘を亡くした」みたいに書いてあったりするもの。あれがキャプションです。
特に客観的理性的に写真を説明する必要は必ずしもありませんから、情動を狙って散文詩や韻文(いわゆるポエムですね)などを添付する場合ももちろんあります。
場合によっては、1タイトル と2キャプション の境界が曖昧になるときがあり、この2つは同じようなものと捉えられる場合もあります。キャプションのようなタイトル、とかタイトルのようなキャプション、みたいな場合です。
例えば、写真に「8/15 正午の銀座」みたいな文字情報が付けられたときに、これはタイトルなの?キャプションなの?と深く悩むことにあまり意味がないだろうことは、お分かりいただけるかと思います。なのでこのコラムでは一緒くたにして扱っています。
ステートメント
3のステートメントは、写真作品(その多くは写真集だったり、複数の写真で構成されたひとつの作品のことが多いようです)に対して、作者がなぜその作品を制作しようとしたのか(制作意図)どういう狙いでどのように写真を制作したのか(構成要素)この写真作品を鑑賞することでどういったことが得られると作者が考えているか(狙い)
などを簡潔に記載した「制作者による声明文」と考えて良いと思います。
実は3のステートメントは、1のタイトル・2のキャプションと比べると明確な違いがあるのですが、その話は後半であたらめて説明します。
写真の制作者は、制作の過程の中で、写真にこれらのタイトルかキャプションかステートメントか、そういった何らかの文字情報をつけるかどうかを判断することになります。
「写真に文字をつける」とはどういうことか
表現として写真を制作する、という行為において、制作者が意識的にであれ無意識にであれ持っているごく原理的な目的をここであたらめて確認すると、
表現としての制作を行いたい場合、写真を撮って提示するあなたは、写真をみてくれた人に何かの感情や感想をいだいて欲しい
ということになるかと思います。これを踏まえて今回のお話の最初の問いを書き換えると、
「『何かの感情や感想をいだいてもらう』ための方策が、写真画像の提示という手法のみに閉じる必要があるのか」
という形に整理できます。こう書くとすっきりとした問題文となりました。
どうでしょうか、みなさんはどうお考えになりますか?
先に私の意見を書いておきます。
私個人は、写真制作において、写真画像の提示のみにこだわる必要は何もない、と考えています。私のコラムでは何度も何度も書いていますが、私はこのことがとても大事だと考えているので何度でも書きます。
自分の制作なのだから、自分の好きにしたら良いのです。何かを伝えたい、何かを感じて欲しいと思ったら、踊っても良い、歌っても良い、小説や詩を書いたり、文章を書いて主張しても良い。演劇だって良いですよね。
このコラムを読む人は写真を撮る人が多いでしょう。もちろん写真も、とても素敵な手法のひとつです。とはいえ、必ずしも全員が「写真画像それだけを提示する」というやり方に閉じる必要は、全くないのです。どこまでを自分の作品として定義するか、は自分で決めれば良いのです。
ぼくは「写真」一本で作品を構成するのだ、わたしは「写真+キャプション」で作品を構成したい、じぶんは「写真+イラスト+散文詩」で構成するよ、様々なやり方があるでしょう。いろんなやり方があって良いと思います。
気にするべき問題は、自分が制作し提示したい作品が、どうすれば自分の目的・狙いを発揮できるか、その一点です。
写真と言葉を合わせて相乗効果を出すことが自分の作品が最も善く機能するのだ、と考えれば迷いなく言葉をつけるべきですし、この写真に言葉を合わせると言葉が邪魔になるから写真だけで示したい、と考えれば言葉をつけるのをやめれば良いのです。
とても単純な話で、なおかつ制作者が判断すべき話です。
このお話を図解するとこうなります。
図
この図に描いてあるパターン、を考えてみたときに、「写真作品の形は(A)に限る」なんて決めてしまうことはナンセンスだ、ということはお分かりいただけるかと思います。べつに(B)でも(C)でも構いませんよね。
念のために注記をしておくと「自分は写真画像のみ文字情報なしの縛りプレイで行くのだ!」というスタンスはアリです。それを否定しているわけでは決してありません(ここ大事)。ですが、少なくとも他人にそのあり方を強制するものではない、私はそう思います。
このコラムの題名である、写真にタイトルやキャプションをつけるかどうかは撮る人が好きに決めて良い、というのがここで一番主張しておきたいことです。勝手に縛りプレイをしている他人から、あれこれ言われる筋合いは全くもってないのです。もちろん逆もそうです。縛りプレイをするな、というやり方を他人に強いることも間違いです。
…ただし、実際問題としては、文字情報を作品の範囲に含める場合(もしくは含めない場合でも)、みる人に、どこまでが作品の範疇で、どこからは作品ではないか、がわかるように提示しなければならない…という課題が出てきますので注意する必要があります。そこはみる人が混乱したりしないように配慮してやることが、制作者としてのマナーとなるでしょう。みなさま気をつけて下さい。
写真が伝えること、文章が伝えること
さて、前段までで写真と文字を組み合わせるかどうかは好きにすれば良い、というお話をしてきましたが、その場合に注意しておいた方がよい点があります。
それは、写真と文字(タイトル・キャプション)で構成された作品は、その作品をみる人が作品の前に立ったとき、写真画像をみたことで感じる感想文字を読むことで感じる感想
の二種類が発生し、そして、作品の感想は写真パートの感想と文字パートの感想が合わさってはじめて完成するという点です。
このことでどうなるのか。何に気をつけないといけないか。
私が一番気をつけるべき、と考えているのは「写真と文字を合わせて使う作品の制作者は、文字も写真と同程度に気を使って制作しなければならない」ということです。
こう書くとまぁそうだよね、という感じです。…そうだよね、なんですが、では写真作品をつくるときに、そこに作品の一部として添える文字のことをどれだけ真剣に考えていますか、まさか展示の直前になんか名前と文章を載せないといけないから適当にひねり出して慌てて書きました、みたいになっていませんか、とかって訊かれると、ちょっとドキッとする人はいるのではないでしょうか。僕も書いてて自分でドキドキしてきました。
写真と文字を合わせたものを作品とするのであれば、当然、作品をみる人が写真パートと文字パートから受ける影響それぞれについて、十分に考えて作品を完成させないといけません。作品の一部として考える、というのはそういうことです。意外と文字パートも影響が大きいんです。
ときどき写真雑誌のコンテストなんかで、審査員のコメントに「タイトルはよく考えましょう」みたいなことが書いてあることありますよね。あれは写真をみたときに受ける印象と、タイトルを読んだときに受ける印象がチグハグになっている場合とか、写真の練り具合・技量に対して文章の練り・技量が圧倒的に足りてない場合とかが、とても多いのだと思います。
例えば、写真パートから受ける感想と、文字パートから受ける感想がまったく違う方向であったら、場合によって「作品としてのまとまりがない」という評価を下されるでしょう。
また例えば、写真がきちんと腰を据えたトラディショナルなものなのに、タイトルが適当で珍妙な、ちょっとはしゃいだ感じのものが付けられているせいで、なんというかふざけているのか何も考えていないのかよく分からないな、みたいに判定されてしまったりすることがあるかもしれません。
しかしそれは、作品へのまっとうな批判であり、まっとうな感想でもあります。制作側としては写真パートと文字パートの組み合わせまで含めて作品を判定されるのだ、ということを覚悟しなければならない。
こういうことを考えると、もしかしたら、写真を文字を合わせて作品制作をしたいのであれば、実は写真技術だけではなく文章技術も学ばなければならない、ということが言えるのかもしれません。
実のところ、私の考えを正直に言うと、人間の感情は、写真画像をみることで受けるものよりも、文字を読むことで受けるものの方が強く、また複雑ではっきりと揺さぶられやすい、そう私は考えています。文字を読むことはすなわち頭の中で音になるからだ、と考えることもあります。音や音楽が感情や思考を揺さぶる力もまた非常に強力です。
写真は一瞬で強烈な印象を与えることが比較的容易にできますが、時間をかけてじっくりと写真を「読んで」もらって、感想を浸透させていくプロセスを行うには、制作側にも鑑賞側にも要求されるハードルがやや高いのかなという印象です。ですから、文字パートが与える影響をよくよく考えて添付しないと、添えられたタイトルやキャプションを読んで生成された感想ばかりが先行したり大きくなってしまったりします。
その結果、文字ではいろいろ大仰に書いてあったけど写真の印象はあまり浸透しなかったな、とか、写真からうける印象と文字から受ける印象のズレばかりが気になってしまうな、という状況が往々にして発生します。
このあたりのお話はただの印象論というか、だいぶと根拠が薄いので、どなたかこの話を肯定か否定する資料などがあればご教示いただきたいのですが。
じゃあお前はどうしているのか、という問いについては、私の写真をみてくださいという回答になります。が、それではあんまりなので、私が持っている自分ルールを、3つしかないうえに理想論なんですが、以下に書いておきます。これは単なる一つの例ですので、こう考えている人もいる、程度に受け取ってもらえればと思います。
文字に関する自分ルール
撮影時に考えたり感じてないイメージを想起する文字はつけない(自分的に一番大事な絶対ルール)写真パートから想起されるイメージと、文章パートから想起されるイメージをあまり乖離させない文字の語呂や語感、文章のスピード感の調整を意識的に行う(個人的には七五調が好き)
ステートメントは作品じゃない
ここまでで長々と、タイトルとキャプションについて、特に、写真と文章を組み合わせて、文章を作品の内部に取り込んだものとして扱うこと、を書いてきましたが、最後にステートメントが残りました。実はステートメントはまた別の扱いをしなければなりません。
ステートメントは、前半で書いた定義を繰り返しますが、写真作品に対して、制作意図や作品の構成要素、狙いなどを簡潔に記載した「制作者による声明文」と捉えられます。
大規模なコンテストなどでは、写真の応募とともに作品のステートメント(またはアーティストステートメント)を要求する場合があるかと思います。特に海外では顕著のようです。コンセプトを記載してください、というコンテストや、写真の紹介プレゼンをしてください、というコンテストなどもあります。それもまた同じようなお話と考えて良いでしょう。
で、このステートメント、やや誤解しがちなのですが、以下の大事な特徴があります。すなわち、
「ステートメントは作品の一部ではなく、作品の外に視点がおかれる」
という特徴です。ステートメントは作品じゃないんですね。
ステートメントは、作者自身が自分の作品について(客観的に)説明・解説したもの、という風に考えると良いかと思います。この作品、どうやって捉えたら良いの?と困惑している人に対して、こうやって向かい合ってみてはどうですか、と手を差し伸べる文章だ、というものとして私は解釈しています。
ですので、ステートメントには原則的に感情を揺さぶる要素は不要です。作品の鑑賞に必要な情報を整理して記載するべきであって、情感溢れる文章で書く必要はないのです。ステートメントの機能として、読んだ人を感動させたり、作品の読後感を再現させたりすることは求められていません。なぜなら、それは作品自体が担う部分だからです。
…どうやら、テクニックとして「ステートメントも上手く感情を揺さぶってやるような文にする」みたいなことをやることもあるようです。が、それはもし成功すればコンテスト通りやすくなるかもしれません、という話であって、ステートメントの第一の機能ではありません。
むしろ失敗すると「ああなんかこの人が感情を揺さぶってくるのはわかるけど、ステートメントに作品に対峙するための基礎情報が載ってない」みたいなことになるので、自信のある人だけやれば良いのではないかと思います。
なんでそんなステートメントなんてものが必要なのか。作品だけで良いのではないか。そういう疑問も出ると思います。私も時々そう思います。作品をきちんと作りこんでいて、作品に向かい合った人が、作品からきちんと「作品を味わうために必要な情報」を十全に吸い出せるのならば、本質的には必要のないものかもしれません。
実際的な話でいうと、ステートメントは、たくさんの写真作品を短時間で見なければならないキュレーターや審査員が、写真をみるときの手かがり、作品と対峙しやすくするための道しるべ、として用いられている場合が多いのでは、と私は推測しています。
もしかしたら、場合によっては、「コイツちゃんと考えてるんだろうか」という真剣度合いを測りたくて、足切りやざっくり判定のために使っている、とかもあるのかもしれません(根拠はありません)(妄想です)。
また「目的がはっきり決まっていて、その目的を達成するために写真を作るという場合には、最初にステートメントがあるものでしょ」という考えが主流の文化圏もあると聞きます。その場合は、(とくにチームで制作を行う場合や、長期にわたる撮影で目的がふらつきがちなのを防ぐためには特に、ですが)作品の制作意図を文章で記載することはある種当然のことなのだと思います。
個人的には、ステートメントを作成することは、自分の作品を自分で外から観察してこういう風に捉えてほしいなという「作品の意図を明確にするプロセス」としては結構有益かなと考えています。自分の写真の赤ペンチェック的なというか、改めて客観的に見直すというか。
特に何十枚もの写真を合わせて一つの作品としてまとめあげるときに「この写真は単体ではすごい良いけど展示全体の意図としては外れてるよね」みたいな場合って結構あるんですよ。こういう場合には、きちんとステートメントを作成していると落ち着いて自分の写真と向かい合うことができるのではと思います。
まとめ
ここまでで延々と(本当に延々と)(7500字近くになりました)書いてきましたが、いかがだったでしょうか。ざっくりとまとめると、
- 写真と文字を合わせるかどうかは制作者が決めて良い
- 写真と文字を合わせる場合は、写真パートと文字パートそれぞれの感想の合わせ技が作品全体の感想となることに十分注意する
- ステートメントは作品ではなく、必要な情報を簡潔に整理して記載するのが良い
といった感じです。まとめると短いですね。
写真と文章(他の要素でも)を合わせると、うまく嵌まればそれぞれが相乗効果を発揮して、とても素敵でとても良い作品にすることができると思います。自分の制作の狙いをより発揮する、よりよく伝えるために、こういった観点で考えてみるのも良いのではないでしょうか。
それでは。